小説ドーナツ

こんにちは、まーです。

何を書こうか、中央大学多摩キャンパスの食堂メニューでも紹介しようかとも思ったんですが
(一階の鉄板料理が美味いです!)
文学会ということで一応文学に関係あることをと、この三日間くらい私が捉われている、小説についての妄念のようなものを書き連ねたいと思います。

それというのは、小説(純文学)を書くことはドーナツ(穴の開いた)を作るようなものなのではないかといった考えです。

というのも、純文学においては、作品の最後まで読んでも意味がわからないというか、結論が漠としているといったことが往々にしてあるように思います。

その理由としては、一般的に認知されているものとして、第一に、読者の想像力に委ねたいという意味で作家があえて結論を隠してる、あるいはぼかしているといった側面があるかと思います。

事実、分からない部分があるものには、想像する楽しみが生まれるでしょう。(造形芸術では、ミロのヴィーナス像は両腕が失われてしまったことによって見るものの想像力がかきたてられ、逆に、よりその魅力を強めたと聞きます。)

そして、もうひとつの理由としては、そもそもその作品を書いた作家自身が、実はそこまでしかわからなかったということも多分にあると私は思っています。

例えば、私自身小説を書くことがあるのですが、先日こんなことがありました。以前の自分が書いた小説の中で『なんかわかんないけど人間ってこうゆう行動とることあるよな〜』と思って書いたのですが、後日、本を読んでいたら、それは行動主義心理学の分野では○○と呼ばれている人間の習性だったということがわかったのです。

小説を書いたときには、そのような知識などなかったので私は『こうゆう行動』として描写するしかなかったわけです。また、たとえそういった既存の用語に還元できたとしても、安直にすべきではないし、したいとは思わないでしょう。厳密に言えば、私の書いた『こうゆう行動』と行動主義心理学で呼ばれる○○は=(完全一致)たり得ないからです。

私は「愛」という言葉を知っていますが、「愛」についての認識を他の人と共有できているとは思いません。

「愛」の形はそれぞれ微妙に異なり、自分の考える「愛」も一般的な「愛」と=にはなりません。(だからこそ、「愛」をテーマとした小説が飽和することなく生み出されているのだとも言えるでしょう。)

自分の考えている「愛」が一般的な「愛」と=にならないのであれば、自分のそれは一言で「愛」と言い切れなくなり、なんなのか分からなくなります。

それが「愛」でないとなれば、途端に認識できなくなり見えなくなる。そこで小説=ドーナツが必要となります。

なぜ小説がドーナツなのか。そもそもドーナツの穴とは、本来、目に見えません。周りを小麦粉(?)の塊に囲われているために認識できるのであって、それ自体は不可視的なものです。

小説もそれと同じではないでしょうか。

小説の「書かれていない部分」とは読者はもちろん作家自身にも「見えない部分」です。ならば、その「見えない部分」を着想とし、周りを小麦粉(?)=小説で覆うように成形することで、依然そこは虚空ではあるものの、何らかの形の穴が浮かび上がる。

それをとりあえずの結論とすることが出来るのではないでしょうか。

もう少し、わかりやすくするために、Aという思想家を仮想して説明します。

思想家Aはあるものについて考えていました。でも、それがなんなのかわかりません。

一般的にはそれは「愛」と呼ばれていますが、思想家Aが考えているのは唯一個のそれであり、「愛」という言葉と=(完全一致)するものではありません。

その「愛」に似たものを中空に浮かべてみても、それは不可視的なものなので思想家Aには認識することが出来ません。そこで、思想家Aはドーナツのごとく、その「愛」に似たものの周りを物語で埋め尽くしてみた。

思想家Aは、それぞれ自己を持った男と女を書き、小道具を書き、舞台となる世界を書いた。その中で男と女が思い思いに行動し、その結果生まれた事象を事細かに記述した。男女は、出会い、手をつなぎ、キスをし、けんかをし、セックスをし、別れ話をし、子供を作った。その運動性の中で、小説=ドーナツという目に見えるものが出来上がり、その中心には何やら歪な星型の穴が浮かび上がった。それは依然虚空ではあるものの、作家Aは、自分の考えていた「愛」に似たものが目の前に出来上がったその歪な星型の穴だと、とりあえずは認識することができるようになった。

と、要するに作家には、それがそれ以上のなんなのかわからない(ということもある)し、読者もその歪な星型の穴から垣間見えるものから解釈するしかない。

分からないものを中心に据え、物語の運動の結果、現れたもの=小説を読んで自分が考えていたことが何かを認識する。

このようにして作品を書いている人は、無意識的にであれ(ドーナツの穴としてみていなくても 笑)実は結構いるんじゃないかなあと。また、私自身も意識はしていませんでしたがこのように作品を書いていたのかもしれないなぁ、とぼんやり思っていたわけでした。

もっとも、エンタメ小説など全てが明確化されてるからこその面白さを出している小説もたくさんあると思うので、ここで私が言った小説とは主に純文学系の作品を指すものと考えてください。

ついでに、私が強く影響を受けた阿部和重アメリカの夜と言う作品では、主人公が特別な個性(自己)を求めて奔走するのですが、彼の思考はこれととてもよく似ているように私には思えます。(自己というものも目に見えない、文学がよく取り上げてきた「ドーナツの穴」ですね)

以下にその根拠となりそうな、アメリカの夜を評した伊藤氏貴の言葉を引用します。


なにかを生み出すべくはじめに存在する〈個性〉などない、あるのはただ〈模倣〉の軌跡だけだ。しかしその中空に、事後的に浮かび上がるなにかがありうるかもしれない。それを〈個性〉と呼べるかもしれない。
(伊藤氏貴「淫靡な戦略――阿部和重の<核>なき戦い」『群像』60(10):32頁)


長かった。あぁドーナツ食べたい。

次はニケさんお願いします。