歴史小説について思うこと

こんにちは、しのぶと申します。
せっかく文学会のブログなので、たまには文学について語ってみようかなあと思います。なんか似合わないことしてすみません。


今回は歴史小説について思うことをちょっと書いていこうと思います。
昨今の歴史小説界は長くヒット作に恵まれていませんでした。(ここで歴史小説≠時代小説ということを念頭に置いていただけると嬉しいです)
そこで久々にヒットとなったのが2007年の和田竜著「のぼうの城」です。第139回直木賞にノミネートされたことが記憶に新しい本作ですが、書評の世界では評判がイマイチのようです。
その批判の矛先は大きく2つです。1つ目は「文体が軽い」こと。2つ目は「時代考証の不徹底さ」です。

著者の和田竜氏は、よく司馬遼太郎氏と比較されます。講談調の話の盛り上げ方や、文中で参考した史料を明記する点が司馬遼太郎氏と重なるからです。「これは司馬遼太郎の再来か」と多くの歴史小説ファン期待させられたのですが、彼らはその文体の軽さにがっかりしたようです。
しかし、私は和田竜氏の文体の軽さに批判の矛先を向けるのは筋違いだと感じます。今の時代に司馬遼太郎氏のような「新聞記事のような淡々とした語り口」が受けるとは到底思えません。事実、和田竜氏の軽妙な語り口は今まで歴史小説を読まなかった層に受けました。エンターテイメントに徹したという意味で、私は「のぼうの城」は評価されるべきだと思います。

では「時代考証の不徹底さ」はどうなのでしょうか。
実はこの批判に対しても私は懐疑的です。司馬遼太郎氏の歴史小説において時代考証が徹底されているのか、といえば答えはNOです。意図的に創作された部分が少なからずあります。
のぼうの城」の冒頭において長束正家という武将を登場させたのは明らかに史実と反していますが、ここで長束正家が登場しなければ話の筋が通らなくなってしまいます。これは意図的な時代考証ミスでしょう。
司馬遼太郎氏の歴史の創作部分は「さすが司馬史観だ」と賞賛され、和田竜氏は「時代考証ミス」と一蹴されてしまう。これは考えてみればおかしな話です。

つらつらと書いてきましたが、日本の歴史小説界はいまだに司馬遼太郎氏の作り出した「司馬史観」を抜け出せていないように感じます。和田竜氏がこのような批判に晒されたのは、「梟の城」で直木賞を受賞した司馬遼太郎氏と重なるからに他なりません。このような若い芽を潰してきてしまえば、これからの歴史小説界の発展は望むべくもないと考えています。


偉そうに長々と書いてしまってすみません。何が言いたいかっていうと、「歴史小説は面白いからみんな読んで!」ということです。
次に回すのは秋原真生さんです。宜しくお願い致します。