俺が文学会の残りカスだ!

タイトルと記事内容は一切関係ありません。
サラダ食べてます。お酒飲んでます。
仕事から帰宅途中、さっさと書けとか言われたので書いてるです。
仕事内容はリア充の観察及び爆破、嘘です。ただの花火大会の警備です。
ストレス溜まる肉体労働、みんな! 派遣社員になったらダメだよ! ちゃんと就活しようね!

こんばんは、文学会五年の無、或いはmukaikaze33、他です。
五年ですよ、五年。
なんでこんな現役に交じって書いてるですか?
老兵は死なずただ消え去るのみ。
売れ残った老兵なんてただの産業廃棄物ですよ? 捨てるに捨てられない邪魔なものですよ? 下っ腹についた脂肪と同じですよ?

しかし、書けと言われたら書くしかないのです。それがコミュニティに属するということの定めなのです。
誰も期待してないのにね。これ以上汚点を残す前に大人しく引退させてくれよ。

さて、特に書くことも思い当たらぬし、会室には最近顔を見せないし、じゃあ何を書くのかって言えば、取りとめもないことしか書けないのだけれど、最近やたらと考えては、彷徨っている、創作の事についてなど軽く書きたいと思います。
書くと言っても、僕のゼミを見た人なら解るだろうけれど、僕の思考形式というか文章と言うか、喋り方というか、そういうものは全て何処から始まって何処に行くのか、みたいな感じで、つまり定まっていないものだからふらふらと混乱したりする。それは、聞き手にとっては非常に厄介なのだけれど、自分はそれを質問を受けるという行為によって再整理して、納得しちゃうものだから余計に厄介なわけで、だから何かって言えば、この先を読むのは相当の気持ち悪さを伴うから、覚悟しろ、というかこいつ気持ち悪とか思っている人はさっさとブラウザバックをすることをお勧めするんだけど、今付けっ放しのテレビでアマガミが始まったからもう集中力なんて維持出来るはずもない。いいか? アマガミはみゃーゲーだからな? はい、三回復唱。アマガミはみゃーゲーです。とか打っている間に、もともと壊れていたバックスペースボタンが壊れたりしたから、もう大変ね。
そして、何を書こうとしていたかなんてもう忘れていて、そうそう創作についてなんだけど、これでも創作論は1ダースくらい読んでいる。もっとも、『ベストセラー小説の書き方』を書いたディーン・R・クーンツは12ダースも読んでいるというからびっくりで、とにかく1ダース読んでも納得のいかないことに対する愚痴を、と書いたところでお風呂から奇妙な音がしてバイト終わってから、まだシャワー浴びてないから、これから入るのだけれど、僕はお化け屋敷にすら入れないびびりだから、つまり今日はもうお風呂に入れない。仕方なくガルデモを全力で歌いながらシャワーを浴びるしかないのだけれど、それはどうでも良くて今は小説のこと。
多分、1ダースの中には何も書いてなくて、『ハリウッド脚本術』とか、ましてやライトノベル創作本なんかにはほとんど書いていなかった気がするけれど、ただの勘違いで何かには書いてある、というか僕が書いている時点でそれは誰かの知識の受け売りなのだから、何がしかには書いてあったけれど、ど忘れしてしまったから、今は保留にしておいて貰いたいけれど、そう小説。
僕は、テキスト媒体はもうどんなに頑張っても映像媒体には追いつけないと思っている。それは小説が文化的に劣っているとかそういうことじゃなくて、読み手受け手のほとんどがマスメディアを通して映像媒体に慣れてしまっているから、同じ描写表現であっても、文字媒体は映像媒体に勝つことは出来ない。ここで脱線して、アマガミを見たい、と思ったのは、梨穂子が出てきたからだけど、今日はみゃー出ないのか、それよりも中多さんは一話に一回出番を、と思うのだけれど、落ち着こう。落ち着く必要がある。
ところでアマガミって、メインヒロインよりもサブヒロインに魅力がある。メインヒロインは、ある程度の層を狙って作らなくちゃいけないからなんだけど、サブヒロインはそれに合わせてパーソナリティを作り上げるから、集合体の妄想であるメインヒロイン像よりもより人間臭くなるから、多分魅力的になるんだと思う。ただし、アマガミはこの辺りよく作り込んで合って、と脱線し過ぎたから戻ると、今はアニメを見ているけれど、このアニメというのは映像媒体な訳ですよ。それで大抵はこの方が見える。
例えば、「少女は口元に拳を置いて上目遣いでこちらを見ながら、はにかむ様に笑った」という文章を映像化してしまうと、これは一瞬で表現出来る。脳味噌で文字を映像化するなんて行為をなしで、映像は一瞬で理解することが出来る。もう一つ、映像の利点は、時間の経過が流れで見えること。もちろん、錯覚に違いないけれど、たとえば文章で表すと、行動は時間と分断される。ところが、アニメだとその行動は流れで見える。連続した動作として見える(アニメ作画さんおつかれさまです)、とここでみゃーと中多さんがセットで出てきたから、AB的に僕は消えられるんだけど、まあ置いておいて、とにかく映像の方が有利な点が多いということだ。特に昨今のライトノベル・エンターテイメント小説は、大塚英志が「まんが・アニメ的リアリズム」と称したように、東浩紀が「ゲーム的リアリズム」と称したように、映像化された行動を模倣しようとする。近代小説に見られた心の動きよりも、プロット形式とアクションが重視されるのである。それは特にライトノベルの分野で顕著である。しかし、所詮は小説であって、映像ではない。だから、よく言われる、というかよく感じるのが、「小説はつまらないけど、アニメは面白い」というものなのだ。
さあ、ぐだぐだしてきたぞ。この後、メイド様だけど、新・耳袋を見たら確実にお風呂に入れなくなる。嫌だね。さて、そろそろブラウザバックで良いんじゃね? というか、思考しながら現在的に書いているものだから、法則も論理もありやしない。いーちゃん的に言えば、戯言だけどね。と締めくくりたいところである。
それで、創作に関して話を戻すと、要するに小説でアクションを書くことはエンターテイメントとしては必要なことだけれど、小説としては全く不要なことだと思う。勿論、文章が上手い作家というのはいるから、本当に行動だけでぞくぞくする文章っていうのは存在するけれど、果たして未熟な書き手にこれが必要なのか、と問われれば劣化コピーになることも、表現し切れないことも目に見えているのだから、必要ないのでは、と思ってしまう。(誇張表現です)
じゃあ、小説を書く、というか、僕の場合は小説というよりも物語を文章で書きたいんだけど、その時に何が必要かっていうのは、再三色々な場所で言われている通り心の動きに尽きるわけですよ。
この先、妄想爆発するので更に注意が必要になるわけですが、心の動きというのはいわば人と人との接触から生まれるわけですね。一人称小説というのは、一見自分一人で完結しているように見えて、その心の動きは全て周囲の状況から生まれるわけです。
ここで更に時代を戻して、浮舟を思い起こせば、彼女は匂宮と薫の間で揺れる。だからこそストーリーが生まれて、葛藤が生まれて、物語が出来上がっている。源氏物語に関して言えば、他にも【薫、中君、大君】という三角関係、【匂宮、薫、中君】という三角関係など、様々な三角関係を積み重ねて物語が動いている。この辺りを文学ミームと呼ぶか呼ばないかは、個人の判断に任せるところですが、しかし、この三角関係の構図というのは確実に文学の中に受け継がれているのは周知の事実である。有名なところだと、『こころ』がそうだ。【私、K、お嬢さん】の関係を始め、三角関係に整理しなおすと、それらが物語を進めていることが見えるし、『舞姫』も一見すると【私、エリス】の相互関係に見えるが、【帝国日本、私、エリス】との三角関係に捉えなおすことも可能だ。
この三角関係こそが、心を動かしアクションを起こす為の鍵になるのである。売れている作品、評価される作品を思い起こせば解ることだが、大抵の作品は相互関係以外の第三者の影が見えるものである。『ゼロの使い魔』におけるシエスタ、『シンフォニック=レイン』の【クリス、アリエッタ、トルティニタ】の関係、アルトネリコの『クロア、クローシェ、ルカ』の関係。これらは趣味を出し過ぎたが、実際に物語は第三者の存在があって始めて動き出すのである。
ハーレム物ラブコメも基本的には、この三角関係の葛藤を利用している。しかし、つまらない物語はこの第三者がおまけポジションでしかない、あるいは第三者がいるにも関わらず介入出来なくする、あるいは同じポジションを奪い合うが、基本的には二人だけの独立を交互に繰り返す形となっているのである。これでは、物語もストーリーも心の動きもキャラクターもテンプレートになってしまう危険性がある。それをアクションで誤魔化そうとすれば、前述の理由によって駄作になってしまうのだと思う。
三者存在は、恋愛じゃないとしても、それは【ピッコロ、悟空、悟飯】の関係でも【悟空、ベジータ、新たな敵】の関係でも何でも良いのである。三角関係が絡み合えば絡みあう程物語は濃密になっていく。
以上が私の自論である。
中途半端な部分はあるが、最近創作について考えていることを、列挙して整理してみた。


よし、最後の最後でまとめを出しましょう。



るたく、或いはそれに準ずる物でそういう面白いストーリーが読みたい。

終わり。

検閲入って問題があったら消しておいてくださいな。

ふふふ。中二根性駄々っ漏れ。保存ボタン押したら、部屋の中で絶叫しながらぐるぐると寝転がってやるんだ。

次はひじきよろしく。