【推薦文】失はれる物語

 この記事では会員が作成した『失はれる物語』の推薦文を公開致します。
(推薦文とは→http://d.hatena.ne.jp/chuo-bungakukai/20161022/1477118453


[本紹介]
乙一『失はれる物語』2006年、角川文庫


[あらすじ]
事故で全身不随となり、触覚以外の感覚を失った私。ピアニストである妻は私の腕を鍵盤代わりに「演奏」を続ける。絶望の果てに私が下した選択とは? 珠玉6作品に加え「ボクの賢いパンツくん」を初収録。
※上記の文章は株式会社KADOKAWAのホームページ(http://www.kadokawa.co.jp/product/200601000042/)より引用致しました。


[あらすじ]
 僕たちは普段生活している中で、他者から発される信号をどれだけ受け止めることが出来るだろうか。そして、どれだけ互いを分かり合うことが出来るだろうか。何故このようなことを言うのかというと、この物語では主人公が五感のうち四感を失うためだ。
 主人公は妻と諍いが多かった。しかし、彼らは互いを嫌悪している訳でもなく、かと言って歩み寄ることもできない。ある日主人公は交通事故に遭い、全身不随になってしまう。彼に残された感覚器官は右腕。それも肘から下だけだ。かろうじて右手の人差し指だけかすかに動かせるが、それ以外彼は体のどこも動かすことはできない。それどころか感覚さえないのだ。そんな主人公の人差し指に気づいたのは妻だった。妻が彼の手に文字を書くことによって彼は様々な情報を得る。そして妻はある時から彼の腕を鍵盤に見立て、ピアノを弾き始めた。主人公は事故に遭うまで妻のピアノはとても上手であるという認識しかなかったが、弾く時々で妻の感情が現れることを悟る。事故に遭う前、主人公は妻の本心に歩み寄ることが出来なかったにもかかわらず、四感を失うことによって妻の感情を知ることが出来たのだった。こうした妻の献身的な対応とは裏腹に、主人公は自分が妻の足かせになっていると感じる。そして彼は妻を無視することで妻の人生から消えようと考えるのだった。ひょっとするとこの作品は主人公と妻の誠実さが裏目に出た悲しい物語なのだろうか。
 ここで初めの問いに戻ってみよう。僕たちは普段生活している中で、他者から発される信号をどれだけ受け止めることが出来るのだろうか。この作品では主人公は触覚だけになる事でようやく妻の本心に触れることが出来た。僕たちも五感のうちのどれか一つに注目することで、今まで見えなかったものが見えてくるのかもしれない。とはいえ主人公と妻は最終的に分かり合えたわけではない。主人公は自分の死を望み、妻は彼を生かし続けて物語は終わる。彼らは互いのことを深く理解しているにもかかわらず、分かり合うことはできなかった。それでも僕たちは他者とわかりあうために手を伸ばすべきだろう。何故ならこの物語の主人公や妻の誠実さは、相手を愛しているからこそ現れるものであり、まさに彼らの愛情表現であり愛の証明であるからだ。もしかするとこの物語は僕たちに、たとえ指一本になろうと愛が失われることはないと訴えているのかもしれない。